『機動戦士ガンダム』その2(1979年4月7日~1980年1月26日放送、一部劇場版についての言及あり)

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 ニュータイプという設定が主人公にもたらした副次的効果(戦争を生き延びるという本来の目的以外のもの)で最も大きなものが、「孤独感」だと思います。

主人公の孤独

 ニュータイプとして覚醒したあと、驚異的な戦闘センスで大量の敵をばったんばったん倒していく主人公のアムロくんですけど、物語の終盤はアムロくんに孤独の影がずーっとつきまとっているように感じます。

 フラウが、アムロくんと同じくご近所さんだったハヤトくんに言います。

「アムロは、違うわ。あの人は。私たちとは違うのよ」

 ううう。切ない。ちょっと話が逸れますけど、私、この作品を見返すたびに、フラウのことがどんどん好きになっていっちゃうんです。ほんと、いい子です。実は、最初に見たときは好きではありませんでした。ハッキリって、ちょっとウザい、みたいな。でもねー、すごく良い子なんですよね。お嫁さんにするなら絶対にこういう子がいいと思います。

 それは置いといて。あと、このセリフの言い回しもすごくいいですよね。脚本は松崎健一さんとなってますね。フラウの自分にいい聞かせてる感じがすごくよく出てます。それも置いといて。

 抜きんでた能力を持ってしまった者の孤独というのはよくあるパターンですよね。もうひとつ、主人公の孤独(とまではいかないんですけど)という観点で忘れられないシーンを。

 主人公たちの乗る戦艦、ホワイトベースが中立サイドのサイド6に入港したときのエピソード。操舵手のミライさんがホワイトベースのブリッジで、サイド6に住んでいる元婚約者と出航をめぐって口論するシーン。言わばこれ、衆人環境下で痴話喧嘩がおっぱじまっちゃうわけで、夕方の五時に小学生が見るにはちょっと高度すぎる内容なんじゃないかと思ってしまう素晴らしいシーンなんですけど、問題は、その場になぜかアムロくんがいないんですね。

 で、修羅場はスレッガー中尉というかっこいい人が全部もっていっちゃって(ずるい!)収まるわけなんですけど、そのあと、その場にいなかったアムロくんが「上で何かあったんですか」とスレッガー中尉に尋ねます。で、「子供には関係ないの(ニヤリ)」とやんわり返されるんですけど、実は劇場版ではちょっと違っています。

 修羅場のあと、ほんの数カットですけど新しいシーンが追加されています。事が終わってからアムロくんがブリッジに行くのと入れ違いに出ていくセイラさんとこういう会話が交わされます。

アムロ「何です?」
セイラ「アムロには関係ないわ」

 ばっさり。セイラさん、むっちゃ冷たい。あの……彼、一応主人公ですよ。ここ、別にアムロくんがいてもいいわけなんですよね。でも、わざわざこういうやり取りを作っています。ここは別にニュータイプ云々は関係ないわけなんですけど、なんとなくアムロくんの疎外感が醸し出されている感じがして、私は忘れられません。

さらなる孤独と回生

 終盤は、どんどんアムロくんが精神的にきつくなっていく出来事が続出します。死んだと思っていたお父さんと再開したものの、酸素欠乏症で正気を失っていたとか。さらに、ニュータイプという、彼と同じ特殊な存在を敵側に置くことで、アムロくんの孤独感はさらに増大します。そしてまた、その二人の関係がとんでもなく深いドラマを生み出すことに繋がっていきます。それがララア・スンですね。

 アムロくんとララアの出会いのシーンは本当に素晴らしいです。何度見ても、息を呑みます。ほんとに息ができないです。特に、白鳥! 誰ですか、こんなの思いついた人は。天才ですか。ここ、まさにスワンソングですよね。そしてこれから先の出来事も暗示している。すごいです。すごすぎます。もっと細かく語りたいですけどきりがないので、次行きます。

 とどめを刺すかのように、自らの手で最大の理解者となるはずの、自分の孤独を埋めてくれるはずの、ララアを殺してしまったアムロくん。彼の孤独感はたぶんもうこれ以上ないくらい深いところまで行っちゃっています。

 そして、その精神状態が、最後のセリフ、「まだ僕には帰れるところがあるんだ」につながるわけですね。

 アムロくんはララアにこんなことを言われています。「あなたには守るべき人も、守るべきものもないというのに」「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」。これが劇場版になるとさらに「人を愛してもいない」というセリフまで追加されています。散々な言われよう……。主人公なのに。

ビルドゥングスロマンとしての着地

 そんなアムロくんが、さらにララアまで失ってしまって、自分にはもう何もないと思っていたけれど、でも、そんなことはなかった。まだちゃんと自分を待っててくれる仲間たちがいた。自分にはまだちゃんと帰れるところがある。物語の冒頭では、隣に住む女の子の気遣いにさえ応えられなかった男の子が、いろんな経験をして、そういう場所までたどり着いたわけですね。

 これが、少年の成長を描いた典型的なビルドゥングスロマンの構造だと考える所以です。

 ただ、この帰れるところが7年後にどうなっているかというと……。これはまた別のお話ですね。

アントワーヌ・ドワネルとアムロ・レイ

 あ。最後に一つ。フランスの映画監督にフランソワ・トリュフォーという人がいて、もうすでに他界しているのですけど、彼が撮った長編第一作目の映画が『大人は判ってくれない』という1959年の作品でかなり古い、白黒の映画なんですけど、私、この映画が好きで何回か見ているんですね。お話は、監督自身の自伝的な要素が強いといわれていて、小学校高学年くらいの男の子が主人公で、その子がちょっと不良、といっても今みたいな荒れた感じではなくて、学校に行かずにタバコ吸ったり物を盗んだり、ちょっとドロップアウトしちゃってる、そんな子、アントワーヌ・ドワネルという名前なんですけど、彼が経験する出来事が描かれるわけです。で、ドワネルくんはいろいろとやんちゃをした挙句(今の感覚からすると大したことはしてないんですけど)、少年院みたいなところに入れられちゃうんですね。そこに収監されるときに大人から質問されて、それに対してカメラに向かって答えるシーンがあるんですけど、そのときのドワネルくんのまなざしが、どっかで見たことあるなーとずっとひっかかってたのですけど、最近ようやく気付きました。劇場版『機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編』でコックピットに座るアムロくんって、ヘルメットのバイザー越しのまなざしがすごく虚無感をたたえた、あの安彦良和さん独特の目の描き方が印象的なんですけど、あれとまったく同じじゃん、と。どちらも、少年の「孤独感」を体現する忘れがたいまなざしです。そう考えると、ドワネルくんとアムロくんの境遇や置かれた環境はすごく近いものがあって、それ以降私の中ではアムロくんとドワネルくんは密接に結びついているのです。富野さんや安彦さんがドワネルくんを意識していたかどうかは分からないですけど、覚書として書いておきます。

 長くなってしまった……。語りたいことはまだまだたくさんある素晴らしい作品ですけど、今回はこの辺で。

 ではまた!

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