『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』

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 すべての始まり、『新世紀エヴァンゲリオン』のTVシリーズ放映が1995年、それからほぼ四半世紀を経て、この日本のアニメーション史上に大きく名を遺す一連のプロジェクトは完全に終焉を迎えました。終わりです。おしまい。終了。たぶんもう私たちは新たなエヴァンゲリオンを、少なくとも庵野秀明さんによってもたらされる作品として見ることはないでしょう。今回『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のラストカットを見て、私はそのことを実感しました。この映画のラストカットは、それはもう誰が見ても明らかな、見事な終焉だったと思います。

 エヴァンゲリオンのことを語るとき、いったいどこからどこまで語ればいいのか、まずとても迷います。以前別の場所で旧劇場版のことを書いたことがあるのですけど、今回、おさらいのために、まずはTVシリーズと旧劇場版について。

TVシリーズ+旧劇場版

 エヴァンゲリオンはTVシリーズ、旧劇場版、新劇場版と一応三通りの結末が用意されていますけれども、私はTVシリーズと旧劇場版(『Air』『まごころを君に』)とは同一のものと考えていますので、つまるところエヴァンゲリオンは旧作(TVシリーズおよび旧劇場版)と新作(新劇場版)の二種類に集約されると言っていいと思います。

 TVシリーズが終了してしばらくのち、世間一般に評判が広まり、アニメ専門の媒体以外でも様々なメディアで取り上げられ(雑誌『STUDIO VOICE』で特集が組まれたときはびっくりしました)、いろんな分析や考察がなされがなされてきました。確かに、旧作には様々な要素が盛り込まれていて、それらの分析や考察を読むのも楽しいのですけど、旧作に込められたテーマは非常にシンプルなものだと思っています。

 主人公の碇シンジくんは、人とかかわるのが苦手、特に父親との関係がうまく築けていない子、人とかかわることで他人を傷つけること、他人から傷つけられることを恐れている、そんな子です。そういう他人と自分とを隔てる心の壁がすなわちATフィールドですね。ATフィールドは、Absolute Terror FIELD、絶対恐怖領域という意味です。作品のテーマをSF的な設定に落とし込んでいる優れた例ですよね。よく考え付いたと思います。

 自分と他人とを隔てているATフィールドを消滅させて、自分と他人との境界をなくしてしまう計画、『人類補完計画』が実行に移され(サードインパクトですね)、そのトリガーがシンジくんなわけですけど、彼が望めば自分と他人との境界がなくなって、そうなるともう他者を傷つけることも、自己が傷つけられることもない、すべての魂が一つとなる、ある意味平和な世界が到来する、そういう状況に追い込まれます。人々が傷つけあう絶対恐怖は消滅するわけですね。でも、最後の最後でシンジくんは、ATフィールドが存在する世界に戻すことを決断します。

旧作のテーマ

 たとえ誰かから傷つけられるとしても、たとえ誰かを傷つけるとしても、自己と他者が存在する世界がいい。他者の存在を恐れ、自己の内面にうまく向き合えなかった少年が、いろんな他者と交わって、いろんな経験をして、結果、そういう判断をする。エヴァンゲリオン(旧作)は、一言で言いうとそういうお話です。

 そこだけ取り出すととてもオーソドックスな少年の成長物語のように見えるかもしれません。でも、エヴァンゲリオンはそんなに甘くはありません。それを端的に表しているのが旧劇場版『まごころを君に』のラストです。サードインパクトは未完で終了し、海岸にシンジくんと、エヴァンゲリオン弐号機パイロットのアスカが横たわっている。シンジくんがアスカの首を絞める、あの有名なシーンですね。なぜシンジくんはアスカの首を絞めようとしたのか。これ、説明がすごく難しいシーンですけど、結局のところ、やっぱりまだシンジくんは他人が怖いんですよね。他人が存在する世界を選んだシンジくんですけど、人はそんなにすぐに変わることはできませんから。このある意味容赦のないラスト、私はすごく好きです。

 普通、あそこまでいったら、最後はきれいにまとめると思うんです。シンジくんは一応はちゃんと成長しているわけですから、そこは少年の成長物語として、とても普遍的な縦軸が一本通っています。主人公アムロくんの成長を描いた『機動戦士ガンダム』と同じですよね。その軸さえぶれなければ、どれだけ枝葉末節でいろんな要素をぶち込んでも、ちゃんと着地できるはずです。でも、庵野監督は予定調和な地点には着地させませんでした。そこにどういう意図を込めているのか、そこまでは分かりませんけど、最初に劇場でこのラストを観たとき、私は、ああ、これ、いいと思いました。ぞくっとしました。

 たぶん、庵野監督はものすごく自分に正直な人なのでしょう。『Air』『まごころを君に』についてはほかにも語りたいことがたくさんあるのですけど、とてつもなく長くなるので、また別の機会に。

 ともかく、旧作だけでも十分作品世界は完結していて、それも、日本のアニメーションのみならず、映像作品全体としてみてもとても稀有な作品として成立していると思うのですけど、庵野総監督は再びエヴァンゲリオンを再構築します。

新劇場版 『序』から『Q』まで

 今回、新劇場版の最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観るにあたって、それまでの新劇場版三作『序』『破』『Q』を見返しました。それで気が付いたことがひとつ。特に『序』、これはほとんとがTVシリーズのブラッシュアップなわけですけど、今回久しぶりに見て思ったのが、作り手たちが「若い」ということ。昔TVシリーズを見ていたときにそんなことはまったく思わなかったのですけど、今回見て「なんか若いなー」と。具体的に説明するのは難しいのですけど、とにかく若い。そりゃそうですよね、だって、TVシリーズ放映時、庵野監督は三十五歳ですもんね。

 それが『破』『Q』と進むにつれて、徐々にその「若い」感覚は薄れていきます。TVシリーズの展開を取り入れながらも『破』は独自のストーリーを構築していますし、『Q』および今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン』)は完全新作です。今回『シン』を観て最初に感じたのは、TVシリーズの頃と比べて、製作スタッフが確実に成熟していっている、その変化です。

作り手の内面的変化

 成長とか成熟とか書くと、なんか上から目線でアレなんですけど、でも要はそういうことで、ただここでは、一応変化と書いておきます。こういうケースって珍しいと思います。いえ、もちろん、特定の作家が年齢を重ねるごとに、生み出される作品が成熟していくというケースは多いと思います。小説なら、ああ、この人の昔の作品って、今読み返すと若書きしてたんだな、と思うことはよくあります。でもそれは、個々の作品に対してであって、ひとつの作品が長いスパンで作られていくなかで、作者の内面の成熟によって作品の持っている感じも変化していくといったようなケースはちょっと思い出せません。いえ、もしかしたらあるかもしれませんけど、ぱっと思いつかない。

 余談ですけど、登場人物(俳優)が成長して変化していく作品はあります。例えばリチャード・リンクレイタ―監督の映画『6才のボクが、大人になるまで。』は、主人公が子供から青年に成長していく過程を描いていて、撮影も2002年から2013年までの12年間を通して断続的に行われています。アニメモランダムのAll Time Favorites『機動戦士ガンダム』で取り上げたフランソワ・トリュフォー監督のアントワーヌ・ドワネルシリーズは主人公アントワーヌ・ドワネル演じるジャン=ピエール・レオーの成長を追った数本の映画ですし、日本だとドラマ『北の国から』も登場人物、特に吉岡秀隆さん演じる黒板純くんの成長を長いスパンで追った作品です。

 このような登場人物の成長を追った作品はほかにもありそうですけど、作り手側の変化が感じられる作品はやはり珍しいのではと思います。今回その変化を最も感じさせたのが、『シン』の前半で描かれる第三村のシークエンスです。

第三村

 たぶん、多くの人がこの第三村の場面に驚いたのではないでしょうか。これ、エヴァンゲリオンだよね、と。こんなにも地に足の着いたシーンを撮ることができるんだ。私もちょっとびっくりしながら、同時にすごく楽しい気持ちで第三村の場面を観ました。

 TVシリーズの頃にはおそらく作ることができなかったし、別に作る必要もなかったとも言えますけど、とにかくTVシリーズ放映時から26年、新劇場版一作目公開から14年、その時間の長さがすなわち、第三村での描写の説得力を支えているのだと思います。14年というと、偶然にもエヴァの少年たちの年齢と同じ、生まれたばかりの子が中学二年生になるくらいの時間ですもんね。とにかく私、第三村のシーン、むっちゃ好きなんです。

 そして、さらに驚いたのが、ケンケンこと相田ケンスケの成長っぷりです。びっくりです。アスカとの関係もびっくりしましたけど、ケンケン、むっちゃかっこよくなってる。まさかそうくるとは、はたしてどれだけの人が予想できたでしょうか。トウジはだいたい想像できますし、想像の範囲内でした。でもまさかなー。で、ケンケンとアスカの組み合わせがすごくしっくりきてるんですよね。あと、委員長のお父さんとか、農作業担当のおばさんたちとか、すごくいいです。

親と子の決着

 もうひとつ、旧作では踏み込めなかった場所に、この『シン』では踏み込んでいて、それがシンジくんの父親、碇ゲンドウの内面と、シンジくんとゲンドウとの対決です。これまで直接対決がなされなかった親と子の確執に決着がつきました。

 碇ゲンドウを動かしている行動理由は、実は旧作からすでに明らかにされていて、しかもずっと一貫しています。それは、死んでしまった妻、碇ユイにもう一度会いたいというその一点です。ただし、そのことについて、これまで碇ゲンドウ自身の口から詳細が語られることはありませんでした。彼がユイに対してどう思っていたのか、どういう気持ちを持っているのか。今回、そのユイに対する気持ちも含めて、彼の内面が彼自身の口から語られました。

 で、その結果、碇ゲンドウが登場人物の中で一番子供っぽい、ということが分かりました。少なくとも私はそう感じました。シンジくんのほうが、まだ大人じゃん。とはいえ、ゲンドウくん(なんかもうくんづけしちゃいます)の気持ちもよく分かります。特に、親戚の家に行った時の居心地の悪さとか、よく分かる。あいかわらず、こういうのうまいですよね。あと、初めて好きになった人にのめり込んじゃう気持ちも分かります。初めて理解されたことが嬉しかったんですよね、ゲンドウくん。

 第三村同様、ゲンドウくんを描くということも、たぶん旧作の時点ではできなかった、これだけの時間を経たからできたことなのではないかと思います。若い作り手たちは得てして親、特に父親を深く描くことを苦手とする傾向にあると思っています。分かりやすい例が、漫画やライトノベルでの父親の不在です。両親ともに長期海外出張とか、とにかく強引な理由をつけて親の描写を避けようとする作品は、特に若い作り手たちの作品に多い気がします。

 ともあれ、これまでずっとなされてこなかった決着がつきました。で、決着はゲンドウくんだけではないのです。なんと、主要な登場人物たち全員に、決着をつけます。その中心にいるのがシンジくんなのですけど、ある意味、終盤はシンジくんが八面六臂の大忙しの活躍です。

シンジくんの役割

 とあるインタビューで、シンジくんの声を当てている緒方恵美さんが今回の『シン』での位置づけがどこか狂言回し的に感じたと話されてましたけど、その意味が何となく分かりました。前回『Q』でのカヲルくんの死によるダメージからの回復という内面変化はあるものの、旧作で軸となっていたシンジくんの心の成長というよりは、終盤で彼が主要メンバーたちに引導を渡していく(この表現があっているかどうか分からないですけど)、そういう役割なのかなと。主要メンバーに、お疲れさまでしたと伝えて回っている、そんな印象です。

 ゲンドウくんは奥さんのもとへと去っていきました。そのあと、アスカはケンケンのもとに、カヲルくんはなぜか加持くんとともに(すごい組み合わせですよね)、綾波は(たぶん)役割を持ったクローンではなく人間として、それぞれ現実世界へとシンジくんによって送り出されます。で、ひとり残ったシンジくん(世界が解体していく過程をアニメーションの作画工程の分解で表現するのがさすがな感じです)のもとに、マリが迎えに来ます。

おわりとはじまり

 マリの位置づけも驚きました。まさかそうくるとは。でもなるほど、シンジくんとはお似合いかもしれないです。マリは子供の頃からシンジくんを知っていたわけですよね。そう考えると、実年齢は親子くらい離れているということなのでしょうけど、シンジくんにはちょうどいいのかも。

 ラスト。庵野総監督の出身地である宇部新川駅から走り去っていくシンジとマリ。映像は実写に。素晴らしいラストだと思います。旧劇場版でも実写パートがあって、それについて書くとまた長くなっちゃうのですけど、旧劇場版の実写パートは、観客たちを無理やり現実に引き戻すためのものだと私は捉えています。たぶん、当時の庵野監督はコアなアニメファンに対して相当幻滅していたのだろうと想像するからです。

 でも、このラストの実写パートは旧劇場版のそれとはまた意味合いが違っていて、もっと前向きなもの、前向きに現実世界へと帰還していく、そんな印象を受けます。超ハッピーエンドじゃん、と思いました。長い物語が終わって、新しい、別の何かが始まる。そんな感じ。冒頭に書いたように、この映画のラストカットは、それはもう誰が見ても明らかな、見事な終焉です。長い間本当にお疲れさまでした、すべてのエヴァンゲリオン。

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