今更説明するまでもない、原作は西尾維新さんの同名小説シリーズですね。そして、制作はこれまた説明するまでもなく、これまで西尾維新さん原作の『物語シリーズ』を手掛けてきたシャフト、そして総監督は同じく新房昭之さん。なので、これはもう何の不安も心配もなく見れてしまいます。っていうか、なんか私ごときが何かを書くまでもない気もするのですけど、一応覚え書きとして書いておきます。
言葉のレトリック
私は西尾維新さんの小説を一度も読んだことがありません。この『美少年探偵団』の原作小説も読んでいませんし、代表作である『物語シリーズ』も読んでいません。読んではいませんけど、おそらく西尾維新さんのアニメ化作品は原作小説のモノローグやセリフを大きく変えてはいないだろうと想像できます。なぜなら、そのモノローグやセリフ回しはあまりにも個性的で、すぐにそれとわかる特徴を持っているからです。
なのでこれはあくまでも想像ですけど、西尾維新さんはとにかく、とことん言葉にこだわっている作家なのだろうと思います。言葉に敏感。それが、あくまでも映像化作品を通してですけど、西尾維新作品に対する印象です。この『美少年探偵団』においても同様で、例えば主人公たち美少年探偵団を構成する言葉、「美」「少年」「探偵」「団」それぞれについて、つまり、美しいということ、少年であるということ、探偵であること、団(チーム)であるということの意味について、とことん考え抜かれていると感じます。
そうやって考え抜かれた言葉の意味が、ときにストーリーを転がしたり、登場人物のキャラクターを形作ったり、謎を生み出したり解決したり、と、様々な効果をもたらしています。そして、随所に効果的な言葉のレトリックが採用され、見るものをくすっと笑わせたり、びっくりさせたり、考えさせたりするのです。西尾維新とは、レトリックの作家なのだろうと、想像できます。
映像のレトリック
そんな原作をどう映像化するのか。どのような切り口が適切なのでしょう。普通、レトリックを多用した小説、言葉そのものが持っている特性に重きを置いた小説は、映像化に向かないのではないか、と誰しもが思うことでしょう。でも、『物語シリーズ』の製作スタッフたちは、そんな既成概念を見事に覆しました。その表現方法を細かく見ていくと完全に話が逸れていくのでやめますけど、それは映像のレトリックとでも呼べるような、独自の表現方法でした。この『美少年探偵団』は総監督とシリーズ構成の新房昭之さん以外は別のスタッフが担当しているようですけど、『物語シリーズ』で見られた演出スタイルは踏襲されていますし、有効に機能していると思います。
刺さるセリフ
これはおそらく原作の持つ力なのでしょうけど、脚本が抜群にうまいですよね。前述したレトリックに該当する細かな言葉遊び的な比喩表現などはもちろんのこと、要所要所で心に刺さるセリフがあります。例えば、シンデレラのエピソード。十二時を過ぎると魔法が解けて馬車やドレスはもとのカボチャや服に戻ってしまうのに、なぜガラスの靴だけがそのまま残ったのか。これ、私はそれまでまったく気にしたことがありませんでした。言われてみれば確かにそうですよね。ガラスの靴も魔法で与えられたものならば、馬車やドレスと同じように消えてしまうはず。で、それに対する、美少年探偵団の団長である双頭院くんが語る理由はこうです。「ガラスの靴が消えなかったのはフェアリーゴッドマザーの粋な計らい」。つまり、ガラスの靴は苦労してきたシンデレラに対する天からの贈り物というわけですね。そして、十年間夢を追い続けてきた瞳島眉美ちゃんに対して、その十年間は報われるべきだと語るのです。うまいですよね。
これ、今冷静に振り返ると、シンデレラが出てくるのがやや唐突な気もしますけど、美しいものを重視する「美学のマナブ」ですからね。そこは特に伏線を張る必要もないのかも。余談ですが、ちょっとネットで調べてみると、実際にシャルル・ペローが書いたシンデレラの原作には、靴は魔法使いから与えられた、とあるようです。知りませんでした。
そして何といっても第三話のラストのクライマックスのセリフ。「瞳島眉美君から空を(以下略)」。お見事です。見事な落ちです。でも結局これもセリフの力、言葉の力、ストーリーの力であって、アニメーションの持っている力ではありません。それでも、この作品がアニメーションとしての魅力が無いかというと決してそんなことはなく、作品全体を通して、アニメーションのみが持つ魅力に満ち溢れています。
とりあえず三話までの最初のエピソード、『きみだけに光かがやく暗黒星』はこの辺で。次回以降はこの作品が持つアニメーションならではの魅力を書いていければと思います。